普通の留年男子大学生は、『カップヌードルごはん』でまんぷくになったりしない。
ぼくは、悲しい。とても悲しい。
『カップヌードルごはん』で生じている事象を事象として伝えられない。
- 出版社/メーカー: 日清食品
- 発売日: 2011/07/25
- メディア: 食品&飲料
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ブランドマネージャーT氏なる人物の手により、すべての記憶が改変されてゆく。マーケティングとか商品開発とかいう繊細でかっこよろしい企業活動と、『カップヌードルごはん』という商品化が生んだ魔法のパッケージングにより、全ての事象は抹殺されてゆく。歴史は書き換えられ、ぼくたちひとりひとりが童心を持って<あの日>から懸命に口へ掻きこんできた「カップヌードルごはん」が汚されてゆく。いや、浄化されていく。うつくしいものへと。すばらしいものへと。小さく儚い、それでいて強い美談へと改変されてゆく。
ぼくはそういった行為を許すことが出来ない。そういったパッケージングの言葉を許すことが出来ない。「カップヌードルごはん」は血であり、肉であり、なおかつ魂である。「カップヌードルごはん」は<土曜日のあの日>の人間の全てである。快楽を笑いを食欲を希望を発奮を高慢を全ての感情と汗と唾を飲み込んで地上へ湧きいでたヴァンリュである。混沌である。メルティングポットである。<土曜日のあの日>もそうだったし、<土曜日のその日>もそうだった。きっと<土曜日のこの日>もそうなのである。マーケッターやブランディングマネージャーなる人物はいつもこうなのだ。ぼくらの本当の「カップヌードルごはん」をくだらない美談で汚そうとする。いや、浄化しようとする。たまるものか。浄化されてたまるものか。全てを飲み込む「カップヌードルごはん」はぼくらひとりひとりの欲望で成り立っているんだ。なるものか。浄化されてなるものか。他愛もない話に書き換えられてなるものか。
日清食品 『カップヌードルごはん』 開発秘話
<あの日>だ。
<あの日>を憶えているか?
<あの日>をきみたちは憶えているか?
土曜日の<あの日>をきみたちは憶えているだろう?
土曜日の<あの日>、つねにすでに「カップヌードルごはん」はあったのだ。いや、あるのだ。
土曜日の半日授業から帰った小学生のぼくたちは、すでに「カップヌードルごはん」を食べていたのだ。
うそだと思うなら、実家でも自宅でもいい。どちらでもいい。
きみたちに<あの日>のお昼ごはんを供していた者に聞いてみればいい。
お茶碗のごはんとカップヌードル。
具入りおむすびとカップヌードル。
そういったお昼ごはんばかりだ。忘れているのだ。マーケティングと商品開発という巧妙な作為のために忘れているのだ。ぼくたちは土曜日の<あの日>、めいめいの<あの日>、半日授業から帰った〈あの日〉。テレビの前で吉本新喜劇か何かを見ながら、麺のなくなったカップヌードルにごはんを放りこみ汁をよく染みこませていたのだ。日本だけではない。世界である。世界中である。世界中のひとたちが『カップヌードルごはん』のために〈あの日〉の「カップヌードルごはん」を忘却しているのだ。インディカ米をカップヌードルに放りこんでた人、パスマティ米をカップヌードルに放りこんでた人、ネリカ米をカップヌードルに放りこんでた人、どれも同じである。みんな忘れているのだ。皆そうである。企業HPと商品パッケージから『カップヌードルごはん』に変な幻想を抱き忘却した人である。現実世界において〈あの日〉から遠く離れ、「カップヌードルごはん」と無縁の生活を送っている忘却した人である。もしくはそういう〈あの日〉体験がない、「テレビから半径5メートルの原風景」のないプチブルである。つねにすでにある巨大な「カップヌードルごはん」の欲望のニーズに合致したから、『カップヌードルごはん』はヒットしたのである。
>日清食品社内では、カップヌードル自体は別格のブランド。
>開発担当者K氏の第一声は「本気か?」
>至極当然の反応であったが、開発担当者K氏とは「日清GoFan」(ゴーハン)開発の苦労を共にしてきた仲であった。
>レンジ食品を成功させるためには、レンジ食品に消費者の目を向けていくには、カップヌードルというブランドが必要であることを力説するT氏。
>一瞬戸惑いを見せたK氏ではあったが、T氏の熱い想いに共感した。
>「やるからには納得のできるものを作り上げよう!!」
>このコトバは、マーケティングチームを勇気付けた。
>カップ麺と比べると、市場規模はまだまだ小さい。この市場を切り開いていくには、これしかない。という両者の思いが合致した瞬間でもあった。
>こうして、製品化に向けてマーケティング部と研究所による二人三脚の開発がはじまった。
(日清食品 『カップヌードルごはん』開発秘話 第2話)
>「カップヌードル味のごはん」である事を明示した試食調査をしたところ、「なるほど!たしかにカップヌードルの味だ!」
>「言われてみれば具材もカップヌードルそのものだ!」
>多くの人が口を揃えて言う。 >それはまさに、慣れ親しんだ味が「ごはん」でも受け入れられた瞬間でもあった。
>カップヌードルというブランドと、新商品の味がリンクしたことで商品パワーが増したのだ。
>「カップヌードルというブランドを使うことで世間に認めてもらえる突破口が開ける!」このとき改めてT氏は、確信した。
(日清食品 『カップヌードルごはん』開発秘話 第4話)
美談である。
うつくしい話である。
マーケッター特有の美談である。
すなわち、この美談こそ憎むべきである。
ぼくたちが求めたのは「カップヌードルごはん」であり、〈あの日〉の原風景である。懐かしい風景である。
ほんとうは、ぼくらは、原風景のなかで直截、面とむかって兄弟や兄妹や姉弟や姉妹と友だちとテレビの前で「おいしいね」と言いあいたいのだ。
けれども、言いあう場所はもうないのだ。言いあうひとは遠くにあるだけなのだ。
だからこそ、『カップヌードルごはん』に逃げ込んだのだ。
現在の生活世界に原風景はない。おさななじみと駆け抜けた山野もない。あの子とかくれんぼした集合団地もない。すこし暑い昼下がりのテレビの前で、「おいしいね」と言いあう友だちすらいない。居たとしても原風景の外である。〈あの日〉の外で。土曜日の〈あの日〉の外で、彼ら彼女らは潰れた農場と両親とを背に必死で働いていたり、教師の夢を叶えるために臨時教員として教師していたり、東京●工業大学を出てリン●アンドモ●ベーションにおいて激務のコンサルをしていたり、大学を中退して歌舞伎町でホストをしていたり、武蔵野なんたら大学でピアニストしていたり、大学在学中に膣内射精してじぶんの精を孕ませ中途退学し、じぶんの精のためにできてしまった家庭をなんとかするために働いていたりするのだ。もう蚊帳のそとなのである。むろんのこと、原風景にもどる方法はない。みんなに声をかければめいめいにきれぎれになった原風景をとりもどすことができるかもしれないとしても、その勇気がない。コミュニケーション能力がない。それは『カップヌードルごはん』においてもおなじだ。原風景を喪失したぼくらは、〈あの日〉の「カップヌードルごはん」を恢復できず、『カップヌードルごはん』をまがいものとしてしか消費できない。
エドワード・レルフはいつも良いことを言う。
- 作者: エドワードレルフ,Edward Relph,高野岳彦,石山美也子,阿部隆
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/03/01
- メディア: 文庫
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ぼくたちの「場所性」は、記憶や思い出と不可分だ。その「場所性」をも平にしてしまう。
「半径5メートルの原風景」とともにあった「カップヌードルごはん」、そしてその場所は、『カップヌードルごはん』というあのいやらしいマーケティングと商品開発と美談とに起源をもつものにとって代わられ、すべて均されてしまうんだ。
でも、〈あの日〉から蚊帳のそとにされたぼく(ら)は、『カップヌードルごはん』に逃げこんだ。ぼく(ら)が弱いからだ。ぼく(ら)がもっと強ければ、〈あの日〉を恢復させることができるんだ。ちりぢりになった友だちと家族と思いでとを持ち寄って〈あの日〉の場所に立ち返れるかもしれなかった。でも出来なかった。ぼく(ら)は非コミュだからだ。ぼく(ら)の声は空転するばかりだった。恢復された空間には、そこには「カップヌードルごはん」があっていいはずなんだ。あるべきなんだよ。言うべきなんだよ。おいしいって。よだれがでたって。いっしょ懸命、箸とかスプーンでご飯を口にかきこんだって。〈あの日〉の〈土曜日〉の〈あの時間帯〉の〈あの町〉の〈あの家〉の〈テレビの前〉の〈あの空間〉で、とってもとってもとってもとってもとっても幸せだったって!
ぼく(ら)の原風景を恥じるべきじゃない。
あんな貧乏くさい思いでなんて。屎田舎の文化乞食量産装置としての町なんて。クラブも性風俗もパチ屋もショップもない屎田舎なんて。…そうじゃないだろう。そんなんじゃないだろ。それが原風景だったし、それが原風景なんだ。「テレビから半径5メートルの原風景」で見た番組を、「テレビから半径5メートルの原風景」で食べた食物を、「テレビから半径5メートルの原風景」で友だちと遊んだテレビゲームを、ぼく(ら)は捨て去るべきじゃないし、恥じるべきじゃない。ぼく(ら)は「テレビから半径5メートルの原風景」でいっしょ懸命、麺がすこし残ったカップヌードルにごはんを染みさせて食べていたじゃないか。ぜんりょくで、口にかきこんだじゃないか。
だからこそ、思いでを抹殺された『カップヌードルごはん』を打(う)っ棄(ちゃ)って、今、はっきり言うんだ。ぼく(ら)が、「カップヌードルごはん」を口にかきこむのは、食欲のためでなく、まんぷくのためでもなく、つねにすでにある「カップヌードルごはん」そのもののためでもなく、ましてやじぶんじしんのためでもない。アイのためだ。ぼく(ら)の真実のためだ。たしかに存在したはずの、真実のアイのためだ。